脂肪燃焼団のおふとりさまですが相席よろしいですか?

脂肪燃焼団のメンバーが日々思ったこと、食べたものなど。

ディスコードとディスコード

 先週のイベントはDJオンリーでなく、クロスオーバーイベントということで、打ち上げで久しぶりにこんなことを聞かれました。


「DJさんって自分も興味あるんですが、すごく難しそうですよね……BPMとかすごく考えてらっしゃるんでしょう?」


なんとも「聞いた相手が悪かった」としか言いようがないですね。
僕ら、あんま考えてないです
思わず初心に還られる内容だったので、以下、少しだけDJ論を…w


あくまでも僕らの考えですが、
「不協和音(ディスコード)よりも、不和(ディスコード)」というポリシーがあります。

たとえば、ONE PIECEのオープニングで世界中に愛される名曲「ウィーアー!」がありますよね。
この曲、BPM167です。
BPMが近く、フロアで愛される名曲といえば、ラブライブ!サンシャイン!のAqours想いよひとつになれ」とか、のだめカンタービレSUEMITSU & THE SUEMITH「Allegro Cantabile」があります。

でも、僕はONE PIECEのあとはNARUTOがいいんだよ

ジャンプめくってるみたいで楽しいじゃないですか。
KANA-BOONの「シルエット」とか、名曲ですよね。BPMは183ですけど。

こういう時に僕らは考えます。
不協和音(ディスコード)か、不和(ディスコード)か。
そして結局、167から183に飛ばす方法を考えます。
ジャンプめくってる感覚を取るわけですね。

だって僕ら脂肪燃焼団、アニメ大好き、アニオタの、アニソンDJですもん。
お客さんと、アニメについて共感し、アニメを介して仲良くなりたいんです。
ONE PIECEのあとにラブライブ!って、BPM的にはそうかも知れないけど、僕らは違うんですよ。それじゃROUND1のクレーンゲームコーナーみたいじゃないですか


 あの人ともっともっと仲良くなりたい、ってときは、誰だって、コミュニケーションのコード…調和を破りますよね。
「今夜は一緒に帰りませんか?」という一言で、同僚という、クラスメイトという、行き帰りの電車で顔を合わせる関係、というコードを破るでしょう。


だから、僕らは全然BPMを絶対視してません。
DJは「手段」ですから。
これがしたい!という「目的」があれば、そんなのは全部放り出して、表現します。
いつか、どこかの現場で、僕らがサンドバッグになって床に転がされていたら「あぁ、アイツらの考えは一般的ではなかったんだ」とお察しください


「DJさんって自分も興味あるんですが、すごく難しそうですよね……BPMとかすごく考えてらっしゃるんでしょう?」

というご質問でしたが、BPMを第一にしなきゃいけない、そう言うルールだとしたら、逆にメチャラクなんですよ。むしろなんにも考えなくていいから。
それなら、ただの手いたずらですから。

僕らが考えているように見えるのだとしたら、それは「いつ、どうやってBPMを破ろうか」ということを考えています。
僕らが難しいことをしているとしたら、それは「僕らがBPMを破ったとしても、目の前のお客さんは絶対僕らのことを嫌いにならない!と、全面的に信じ抜くこと」です。


DJ論、終わり。



ディスコードといえば、とある番組で、MCが「死んだら負け」と言ってエライ騒ぎになりましたよね。
「死のうという人間に対して『負け』とは何事か」と。

あれも、ディスコードの問題でした。

発言内容はこうです。
「世間やマスコミは、自殺した人間に同情的で、その死を悼み、ともすれば、自殺の意思自体を尊重しかねない様子だが、それを見た、追い詰められた人間が『私も死んだらあんなふうに、皆が共感してくれるのかしら、同情してくれるのかしら』と、自殺を企図しかねやしないか、と、強く疑念を抱いている。だからこそ、世間の向きに反し、自分だけは『死んだら負け』なんだとハッキリ表明したい」


自殺した人を貶めたりしていませんし、自殺しようとしている人を軽んじてもいません。
「死んで花実が咲くものか」と、それほど変わらない意味で使っているだけです。
死んだら負け、で気炎を上げていた方は「死んで花実が咲くものか」が掲載されている「大辞林」の三省堂にもキチンとクレームを入れているんでしょうかね。「死のうという人に対してなんて無神経な言葉を掲載しているんだ!」つって。


単純に「死」に対して「負け」がディスコードだったんですよね。
ただ、当人がなぜ「負け」という刺激的な言葉を使ったのか。
見てもらいたいから、一緒に考えてほしいから、ではないんでしょうか。
誰が自殺しようと構わない、というなら「遺憾の意を表します」「可愛そうでしたねえ」と言って、右から左へ流してしまえばいいじゃないですか。

それを、単純に言葉選びがいびつだからといって、相手の人間性がどうの、と、言い切れてしまうその無神経さ。それこそが、発言者の「自殺という強烈な事実に対して、無条件に同情してしまう世間」そのものであって、あまりの意思疎通の出来てなさにため息が出るばかりです。いびつなのは、無思慮なのは自分の方ではないのか、と思わないその神経に薄ら寒さを感じます。

渋谷のハロウィンがそうだったんですが、いかなる時もひとつのコードに準じて行動する、という人間は、素晴らしいことでも何でもない。かえっておかしなことの元凶になると思います。
トラックを横転させた彼らも「ハロウィンなんだから、特別な日なんだから、特異なことをしなきゃいけないんだ、おかしなことをしてもいいんだ」という、おかしな高揚感に取り憑かれていたのでしょう。


ときにはコードを破り、やりすぎたら、謝る。
それが良い人間関係の元ではないかと、ふと頂いた質問について、思いを巡らせておりました。